日蓮正宗入門

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序編 釈尊の仏教 第二章 釈尊の教え 10

二、法華経

法華経の構成と各品の大意

◇本門十四品

『従地涌出品(じゅうちゆっじゅっぽん)第十五』では、他方の国土より来集した迹化の菩薩たちが、釈尊滅後の娑婆世界(此土)の弘経を願い出ますが、釈尊はこれを制止して、大地より無数の本化地涌の菩薩出現させます。

この地涌の菩薩の上首は上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩で、師である釈尊よりも威厳をそなえていました。

一座の大衆は今までに見たこともないこれらの菩薩に対して疑念を懐き、弥勒菩薩が代表して釈尊に質問をすると、釈尊は久遠以来、これらの菩薩を教化したことを簡略に明かしました。
これを「略開近顕遠(りゃっかいごんけんのん)」といいます。
この『涌出品』からは「本門」といわれ、釈尊の本地が明かされることになります。

 

如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六』では、冒頭、仏が教説を信受すべきことを三度誡め、菩薩たちが三度説法を請うという三誡三請(さんかいさんしょう)、さらに請い、重ねて誡めるという重請重誡(じゅうしょうじゅうかい)からはじまります。このことは、『方便品』の三止三請・重請許説(じゅうしょうこせつ)よりもさらに丁寧なもので、これからなされる仏の説法がいかに重要であるかを示唆するものです。

その説法とは、釈尊はインドにおいてはじめて悟りを得た「始成正覚」の仏ではなく、実は五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)という久遠の昔に成道した「久遠実成」の仏であることを、本因・本果・本国土の三妙を説いて具体的に示し、仏の久遠本地と三世の常住を明かされたものでした。

この仏の久遠開顕は「広開近顕遠(こうかいごんけんのん)」といい、これまでの仏身に対する認識を根底から覆すものでした。 これによって、事の一念三千の法門が明かされ、一切衆生の成仏も具体的となりました。
この意義から『寿量品は、』は、法華経の中において、もっとも肝要な一品であるとともに仏教全体の眼目となるのです。
当品では続いて、仏の三世常住を「良医病子(ろういびょうし)の譬」として説かれ、さらに「自我偈」でこれらを重説されています。

 

『分別功徳品(ふんべつくどくほん)第十七』の前半では、寿量品で多くの人々が仏の寿命の長遠を聴いて大利益を受けたことが説かれ、その功徳に種々の違いや浅深があることから、分別して示されています。ここでは、弥勒菩薩が仏からの授記を領解したことを述べ、本門の正宗分が終了します。

後半は、弘経者のための「現在の四信」(一念信解・略解言趣・広為他説・深信観成(じんしんかんじょう))と、「滅後の五品」(随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品)が説かれ、その功徳の甚大さと修行の段階が示されています。

 

『随喜功徳品(ずいきくどくほん)第十八』では、前品に説かれた「滅後の五品」の中の随喜品についてさらに「五十展転(てんでん)随喜の功徳」として評説されています。 

これは、仏の滅後に法華経を聞いた人が随喜して他の人に法を伝え、その人がまた随喜して次に伝え、次第に展転して五十番目の人に至ることをいいます。この五十番目の人が法華経の一偈を聞いて随喜する功徳でさえ、八十年にわたって一切衆生に多くのものを布施したり、阿羅漢果(あらかんが=小乗の悟り)に導いた人の功徳よりも甚大であると説かれています。化他のない五十番目の人であっても大きな功徳があることから、ましてや自行化他の功徳が、いかにはかり知れないかを明かされています。

 

『法師功徳品(ほっしくどくほん)第十九』では、法華経を受持・読・誦・解説・書写するという「五種法師」の修行の功徳が説かれています。 この修行によって、具体的に眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(み)・意(い)の六根が清浄(しょうじょう)となる功徳が得られることを示し、滅後の弘経を勧められています。

 

『常不軽菩薩品(じょうふぎょうぼさつほん)第二十』では、法師功徳品によって明かされた六根清浄の果の功徳に対し、その因の修行が説かれています。 すなわち六根清浄を得るには、難を忍んで弘経すべきであることを教えられ、釈尊の過去世における常不軽菩薩としての但行礼拝(たんぎょうらいはい)の修行を示しました。

当時の四衆(比丘・比丘尼・優婆塞(うばそく)・優婆夷(うばい))は、この不軽菩薩を迫害したことにより、千劫の間、阿鼻地獄に堕ち、大苦悩を受けました。

このように、法華経を受持信行する人の功徳と、持経者を毀謗(きぼう)する罪業を示すことによって、未来における弘経を勧められています。

 

如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一』では、前品までに法華経流通の広大な功徳を聴いてきた本化(ほんげ)地涌の菩薩たちが、仏滅後の弘経を誓願しました。 そこで仏は、まず十種の大神力を現じ、次いで上行菩薩を筆頭とする地涌の菩薩に対し、特別に法華経の滅後弘通を付嘱されました。 

これを「別付嘱」といい、称歎(しょうたん)付嘱・結要(けっちょう)付嘱・勧奨(かんしょう)付嘱・釈(しゃく)付嘱の四段からなっています。特に「結要付嘱」においては、法華経の肝要を「要を以て之を言わば、如来の一切の所有(しょう)の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す」(開結513)と、四句の要法に括って法華経の肝要を上行菩薩に付嘱されています。

 

『嘱累品(ぞくるいほん)第二十二』では、迹化の菩薩や一会の大衆にも総じて法華経を付嘱されました。これを「総付嘱」といいます。やがて付嘱の大事を終えられた仏は、十方より来集した分身の仏に対して各々の本土へ還ることを命じ、宝塔を閉ざされました。ここにおいて『見宝塔品第十一』よりはじまった「虚空会」の儀式は終了し、説法の会座は再び霊鷲山(りょうじゅせん)に移されることになりました。

 

『薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)第二十三』では、薬王菩薩が過去世において仏への報恩のためにあらゆる供養を捧げ、最後に焼身供養し、再び生まれて焼臂(しょうひ)供養することなど、不惜身命に徹して法華経を実践することの重要性が説かれています。そして法華経が他の経典より優れて最上最尊であることが十種の譬えによって明かされ、さらに「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布」(開結539)と、仏滅後の末法法華経が必ず流布することを予証されています。

 

『妙音菩薩品(みょうおんぼさつほん)第二十四』では、妙音菩薩が教化の対象に応じて三十四種に身を示現し、娑婆世界のあらゆる場所で法華経を説いて衆生を救護(くご)することが説かれ、法華経の流通が勧められています。
この妙音菩薩の三十四身の示現は、衆生に対して、滅後に法華経を説く者がどのような姿であっても軽蔑の心を起こしてはならないと誡められたものであり、さらに法華経を行ずる者が衆生を救済するため、あらゆる姿に身を現じて法を説くことができると教えられたものです。

 

『観世音菩薩普門品(かんぜおんぼさつふもんぼん)第二十五』では、観世音菩薩が三十三身を示現して衆生を救済するという化他流通が説かれています。これは前品の妙音菩薩と同様に、観世音菩薩が衆生の機に応じて姿を現じたもので、これを「普門示現」といいます。普門とは、普(あまね)く一切衆生を解脱の門に入れる意で、この妙用を垂れることによって衆生を済度するのです。

 

『陀羅尼品(だらにほん)第二十六』では、薬王菩薩・勇施(ゆぜ)菩薩・毘沙門(びしゃもん)天王・持国(じこく)天王・十羅刹女(じゅうらせつにょ)の五番善神が陀羅尼(神呪(しんしゅ))を説いて滅後の法華経の行者を守護することを仏前に誓い、法華経の流通を勧めています。

「陀羅尼」とは「総持」と訳され、これは一字の中に無量の義を含んでいることを表しています。また善を持ち悪を遮るとの意から「能持能遮(のうじのうしゃ)」とも訳されます。

 

『妙荘厳王本事品(みょうしょうごんのうほんじほん)第二十七』では、薬王菩薩・薬上菩薩の過去世の因縁が説かれています。それは、浄蔵(後の薬王菩薩)・浄眼(薬上菩薩)が、母の浄徳夫人(妙音菩薩)とともに、外道を信じていた父・妙荘厳王を仏のもとに導き、法華経に縁を結ばせたというものです。

この品では、浄蔵・浄眼の二人の姿をとおして、正法を護持し流通することの大事が示されるとともに、「盲亀浮木(もうきふもく)の譬」と「優曇華の譬」をもって、仏に値(あ)うことの難しさを説いています。

 

普賢菩薩勧発品(ふげんぼさつかんぱつぼん)第二十八』では、法華経の締め括りとして普賢菩薩が現れ、仏の滅後にどのようにすれば法華経の悟りを得ることができるかと質問し、仏の説法を請願します。そこで仏は、一には諸仏に護念され、ニには諸の徳本を植え、三には正定聚(しょうじょうじゅ)に入り、四には一切衆生を救う心を発(おこ)す、との四法を成就すべきことを説かれました。

この説法を聴いた普賢菩薩は、悪世末法において法華経を受持する者を守護し、法華経の教法を守護することを誓います。最後に仏は、末法において普賢菩薩法華経を守護することを讃歎(さんたん)し、衆生法華経の弘通者を敬うべきことを説きました。

こうして仏の説法が終わり、大衆は歓喜し礼を作(な)して法座から去り、法華経二十八品のすべてが終了します。

なおこの品は、法華経を要約して再び説かれたことから「再演法華」ともいわれています。

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