日蓮正宗入門

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仏教の流転 インド仏教

仏教の流転 インド仏教
中インドに起こった仏教は、釈尊入滅後、弟子たちの弘経によって徐々にインド全域に広まっていきました。その後、教団が大きくなるにつれて、そのなかで仏説を守る立場の上座部(じょうざぶ)と、自由主義的な大衆部(だいしゅうぶ)のニ派に分かれた教団は、やがてそこから始末分裂(しまつぶんれつ)を起こして部派(ぶは)仏教の時代を迎えることになりました。そして、西紀前後の頃から大乗仏教が盛んになって多くの大乗経典が成立し、二世紀に入ると、これらの大乗経典の理論づけが行われるようになり、竜樹(りゅうじゅ)や世親(せしん)等の大論師が出て、仏典の精神をより鮮明(せんめい)に解説されました。
経典の結集
釈尊は五十年間にわたって説法を行いましたが、それは文字として残されてはおらず、また弟子たちも記録することはありませんでした。釈尊の滅後、弟子たちは一カ所に集まり、その教えの散逸(さんいつ)を防ぐとともに、教法を整理するうえで、各々が記憶していた釈尊の言葉を暗誦(あんじゅ)し合い、編集しました。
これを「経典の結集(けつじゅう)」といいます。
この結集は入滅の年に第一回が行われ、その後数回にわたって行われましたが、それぞれの年代については不確定で、いくつかの説があります。
第一回結集
釈尊入滅の年、阿闍世王(あじゃせおう)の外護(げご)によって、摩竭陀国(まかだこく)の王舎城(おうしゃじょう)の南、七葉窟(しちようくつ)(畢波羅窟 ひっぱらくつ)の前に講堂
が建立(こんりゅう)寄進されました。ここに長老の摩訶迦葉(まかかしょう)を上首(じょうしゅ)として五百人の比丘(びく)が集まり、持律(じりつ)第一の優婆離(うばり)が戒律(律蔵)を誦し、多聞第一の阿難が教法を通して、それを多くの比丘たちが確認し整理しました。
この結集は七カ月間にわたって行われ、場所にちなんで「王舎城結集」と呼ばれ、また集まった人数にちなんで「五百集法(しゅうほう)」ともいわれています。
多くの経典の冒頭にある「如是我聞(にょぜがもん 是の如く我聞きき)」は「このように私は(仏から)聞いた」との意で、それ以下に述べる教説が釈尊の説いた教えであることを証明する序文となります。
なお、この第一回結集によって確定された釈尊の教えは、暗誦(あんじゅ)されたのみで文字には記されませんでした。それは当時の観念として、崇高(すうこう)な教えは文字に表すことはできないという考え方が支配していたからといわれています。
第二回結集と根本分裂
第二回の結集は、仏滅後百年の頃、戒律上の異議が生じたことを契機として、耶舎陀(やしゃだ)等の七百人の比丘(びく)が毘舎離(びしゃり)の大林精舎(だいりんしょうじゃ)に集まり、律蔵を中心として編集されました。この結集は八ヶ月間にわたって行われ、「毘舎離結集」とも「七百集法」ともいわれています。
当時、毘舎離地方の比丘らは律蔵に対して寛大な解釈をし、それまで許されなかった金銀を受けること、塩を蓄えることなど、十の新説(十事)を主張していました。この十事の是非を巡って、東西より七百人の比丘が毘舎離城に集まって討議を行い、その議論の結果、新説の十事は非法として退けられました。そして併せて、「経」と「律」の合誦が行われました。
その後、非法として退けられた比丘らが独自の結集(大衆結集)を行ったことより、教団は、教義や戒律を伝統的に解釈する「上座部」と、戒律に執われず自由な解釈をする「大衆部」とに分かれていきました。この分裂を「根本分裂」といい、また分裂以前を「原始仏教」、これ以後は「部派仏教」と呼ばれています。 第三回結集
紀元前三世紀頃、マウリヤ王朝第三代阿育王(あいくおう)は、仏教を厚く外護して寺塔を建立し僧を供養しました。
この阿育王の外護のもと、目連(もっけんれん)帝須(ていす)が上首(じょうしゅ)となって一千人の比丘を集め、華氏城(けしじょう)において経・律・論の三蔵を編集しました。この結集は約九ヶ月間にわたって行われ、「華氏城結集」「千人集法」といわれています。
第四回結集
二世紀中期のクシャーナ王朝第三代・迦膩色迦王(かにしかおう)は、阿育王と並ぶ仏教の外護者で、寺院の建立や弘通に力を尽くしました。
当時、インドの仏教界は多くの部派に分かれ、互いに自説を主張し論難し合っていました。そこで仏教外護者であった王は、これらを統一しようとして結集を発願し、付法蔵(ふほうぞう)の十祖である脇尊者を中心とし三蔵に通じる五百人の比丘を集め、カシミールにおいて三蔵の釈論を編集しました。
大乗仏教の興起
仏滅後百年の頃、第二回結集を期して「上座部」と「大衆部」に分裂した教団は、その後さらに分裂を繰り返し、十八部、または二十部に分かれていきました。
分裂の原因はさまざまで、教法のとらえ方の相違によるもの、指導的立場にいた長老を中心として一派をなしたもの、地理的に隔絶して一派を形成したものなどがありました。このような分裂を繰り返していくなかで教団は、経典や戒律の解釈(釈論)を先行させることとなり、次第に学問中心の利己的な修行へと形骸化していきました。
そこで、仏教本来の衆生済度の姿に復帰させようとする新しい運動が起こってきました。この仏教運動者らは、釈尊の教えは自己の悟りのみを追求するのではなく、衆生の救済に真の目的があるとし、その観点から一切衆生の救済を目指す自らのことを「大乗」と名づけ、それに対して利己的な部派仏教を「小乗」として排斥しました。この大乗仏教運動には部派仏教の人たちの間からも共鳴者が多く現われ、インド各地に急速に普及していきました。大乗仏教の展開大乗仏教運動の進展にともなって大乗経典も数多く編纂され、やがて二世紀頃から経典の注釈が行われるようになり、竜樹等の論師が出てきました。竜樹は、『中論』をはじめ『大智度論』や『十住毘婆沙論』等を著して「空」の教えを大成し、大乗仏教思想の基礎を築きました。これにより竜樹は、中国や日本の多くの宗派から開祖と仰がれ、「八宗の祖」といわれています。
竜樹の後継者たちは、主に『中論』を中心に研究したので、その系統は「中観派」と呼ばれています。その後、四世紀になると、無著や世親(天親)等の論師が出て、唯識思想を大成し、大乗教の宣揚に努めました。この系統を受け継ぐ弟子たちは「唯識派」と称され、「中観派」とともに二大学派が形成されて、学問仏教としての色彩が強まっていきました。しかし、六世紀に入ると、仏教は呪術的・神秘的傾向を帯びて密教化し。土俗信仰であるヒンドゥー教の影響を強く受け次第に吸収されていきました。さらに十一世紀頃からイスラムがインドに進出し、イスラム教徒の攻撃によって、多くの僧がネパール、チベットに逃れるようになりました。
イスラム教徒は、仏教僧院の破壊や僧尼の殺戮を行い、一二〇三年には、インド仏教の中心的寺院であり最後の砦であったヴィクラマシラー僧院を破壊し、これによってインドの仏教は消滅しました。
大乗非仏説について
大乗仏教が発展する一方で、それを否定しようとする「大乗非仏説」という考えも現れてきました。この大乗非仏説とは「大乗は仏の説に非ず」という意味で、大乗経典は釈尊滅後において、経典の編纂者が製作したものであって、釈尊が真に説いた経は、釈尊の時代にもっとも近い阿含部の経典(小乗経)だけであると主張する考えです。この大乗非仏説論そのものはすでに古代インドから論じられており、『大品般若経』等にも記述が見られますが、それほど大きくは採り上げられませんでした。また中国では、仏教は道教との間に確執を生じましたが、大乗非仏説論は起こりませんでした。日本においては、江戸時代中期になって儒学者の富永仲基が『出定後語』を、国学者平田篤胤が『出定笑語』を著して非仏 説論を唱え、さらに明治期においてもこの流れはわずかに続きました。しかし、これらの大乗非仏説論は、釈迦滅後に弟子たちによって結集された経典を年代順に見たところからの発想であって、釈尊衆生済度の願いや、その説かれた教典の真意を汲んだものではありません。釈尊が教えを説かれた目的は、すべての衆生を救うところにあるのですから、小乗教のような自己のみの完成を目指す教えだけを真実をする考え方は、釈尊の本意に背くこととなります。また、大乗経典に説かれる予言の的中や、法華経に説かれる深遠にして完璧な教理は、法界一切を開悟した仏でなければ明かすことのできないものです。これらの理由から、現代では大乗仏教釈尊の精神と教えが正しく説かれているとして、大乗を仏説とする考えが定着しています。