序編 釈尊の仏教 第二章 釈尊の教え 12
二、法華経
法華経の特長
本門の特長 - 久遠実成(開近顕遠(かいごんけんのん) -
釈尊は、爾前経や法華経迹門において、インドで誕生し三十歳で成道したという「始成正覚」の立場で法を説かれましたが、法華経本門の『寿量品第十六』において、
「我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫(なゆたこう)なり。譬えば五百千万億那由佗阿僧祇(あそうぎ)の三千大千世界を云々」(開結429)
と久遠五百塵点劫(ごひゃくじんでんごう)という昔にすでに成道していたとする本地(仏の真実の相)を明かされました。
これを「久遠実成」といい、この久遠実成が明かされる法門を「開近顕遠(かいごんけんのん)」といいます。
「開近顕遠」とは法華経本門ではじめて説かれる重要な法門で、「近を開いて遠を顕す」と読み、釈尊が始成正覚の垂迹身を払って(開いて)久遠以来の本地を顕されたことを意味し、これはまた同時に爾前迹門までの教えを方便として退け、仏の真実の教えを明らかにされたことでもあります。
釈尊はこの久遠実成の具体的な内容を『寿量品』において、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙をもって明かされています。
まず久遠実成という本果について、
「我成仏してより已来(このかた)、甚だ大いに久遠なり。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず」(開結433)
と、釈尊が仏果を感じたのは久遠の昔であると明かされ、さらにその仏の寿命は不滅常住であると示されています。そして成道の本因について、
「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」(開結433)
と、久遠の過去に菩薩道を行じたことを明かされ、成道の本国土について、
「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(開結431)
と、常にこの娑婆世界で衆生を教化してきたことを説かれています。
このように娑婆世界有縁の仏は釈尊であり、なおかつ仏の生命は三世常住であると説かれたことにより、仏と衆生とはかけ離れた存在ではないことが明らかとなったのです。
これらによって、事実のうえに一念三千の法門が明かされ、衆生の成仏が現実のものとなったことが本門の特徴です。
―化導の始終(種熟脱の三益)―
法華経には衆生を得脱させるための化導の始終(順序)として、下種益(げしゅやく)・熟益(じゃくやく)・脱益(だっちゃく)という三つの得益(とくやく)が示されています。下種益とは、仏が衆生の心田(しんでん)に仏種(ぶっしゅ)を下すことをいい、熟益とは、その仏種 を成長させて機根を調熟(じょうじゃく)させることをいい、脱益とは、仏種が実を結び衆生が得脱して仏の境界に至ることをいいます。
法華経以前の諸経では、このような下種より得脱するまでの三益が説かれず、一切衆生の成仏は明かされませんでした。
この三益は、法華経の迹門と本門とにそれぞれ説かれ、まず迹門では、『化城喩品第七』において、三千塵点劫という久遠に大通知勝仏(だいつうちしょうぶつ)の子である十六王子が、父王から聞いた法華経を再び講じたこと(大通覆講)が説かれ、その十六番目の王子がインド応誕の釈尊であり、化導されてきた無数の衆生こそ、眼前の弟子たちであるとの宿世の因縁が明かされました。
このことは釈尊が衆生済度のため、久遠三千塵点劫の昔に下種をし、それ以後、法華経迹門までの間に仏種を調熟し、そして未来に得脱するであろうという化導の始終を示されたものです。
しかし、これらのことを久遠実成が明かされた本門の立場からみれば、迹門ではいまだ仏の本地が明かされていないため、調熟の段階となり迹門熟益の法門となります。
そして本門において、『如来寿量品第十六』ではじめて仏の久遠の本地が明かされ、その仏によって衆生は久遠五百塵点劫に下種を受け、三千塵点劫の大通知勝仏、及び爾前四十余年と法華経迹門の間に調熟され、『寿量品』で得脱するという化導の始終が示されました。これを本門文上の脱益の法門といいます。
これらのことをもって、釈尊の化導における種・熟・脱の三益が明かされ、衆生の得脱の相が示されたのです。