日蓮正宗入門

日蓮正宗信徒・個人の運営で、「日蓮正宗入門」を紹介しています。

序編 釈尊の仏教 第二章 釈尊の教え 3

一、釈尊一代の教え ー 五時八教 ー

<八教>

◇化法の四教

化法の四教とは、釈尊一代五十年の説法を、天台大師が教理内容の面から蔵教(ぞうきょう)・通教(つうきょう)・別教(べっきょう)・円教(えんきょう)の四つに分類したものです。

蔵教(ぞうきょう)

蔵教(ぞうきょう)とは三蔵教の略称で、三蔵とは経(教典)・律(戒律)・論(解説)をいいます。
この三蔵は、本来、小乗教、大乗教の双方にそなわっているものですが、天台大師は法華経『安楽行品第十四』の、

「貧著(とんじゃく)小乗 三蔵学者」(開結 383)
の経文を、「小乗に貧著する三蔵の学者」と読み、このことから小乗教を指して三蔵教と称しています。

蔵教は声聞(しょうもん)・縁覚(えんかく)の二乗を正機(しょうき)とし、菩薩を傍機(ぼうき)として説かれた教えです。その教義は、三界・六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の苦しみが前世における煩悩(見思惑)と、そこからもたらされる業(行い)の報いによるものであるとし、この煩悩を断ずるためには、空理を悟るべきことを説いています。

蔵教の空理観は、一切の事物を構成要素に分析していき、それらは因縁が尽きれば滅して空になると観る「析空観(しゃくうかん)」を説いています。

この空理観に基づき、声聞は四諦(したい)、縁覚は十二因縁、菩薩は六度を修行して、見思惑という煩悩を断尽し、再び三界六道の苦界に生を受けることがなくなるということを蔵教の悟り(涅槃)としています。 見思惑とは、道理に迷う煩悩(見惑)と、感情的な煩悩(思惑)のことをいいます。

これらの煩悩は、肉体があるかぎり心を惑わすものですから、灰身滅智(けしんめっち=身を灰にし心智を滅失すること)によって、はじめて真の涅槃に入ることができるとされています。 この悟りを「無余涅槃」といいます。

このような蔵教の空理観は、現実を否定し、すべての実態をただ空の一辺のみと見るところから「但空の理」といわれ、また偏った真理であることから「偏真の理」ともいわれます。

通教(つうきょう)

通教(つうきょう)は、前の蔵教では傍機であった菩薩を正機とし、声聞・縁覚を傍機として説いた権大乗の教えです。

通教の通とは、ここで説く「当体即空」の空理が前の蔵教の空理に通じ、また、後の別教(べっきょう)と円教(えんきょう)にも通じるという意味です。

通教では、三界六道の苦界から脱れるための観法として、因縁によって生じた諸法の当体はもともと存在せず、それ自体が空(当体即空)であるという「体空観」を説いています。

この通教において三乗の人々は、それぞれに無生の四諦・十二因縁・六度を修行しましたが、その悟りの内容は機根の利鈍の差により、同一の結果とはなりませんでした。 すなわち鈍根の菩薩や声聞・縁覚の二乗は、「当体即空」を聞いて蔵教(ぞうきょう)と同じく「但空」を悟るに止まり、利根の菩薩は、この当体におのずから有の存在を含み、ただ単なる空ではないという中道の妙理が含まれている「不但空の理」を悟るというものでした。

したがって、この通教(つうきょう)の説かれた主な目的は、利根の菩薩に不但空の理を悟らせ、次の別教(べっきょう)や円教(えんきょう)の修行に進ませるところにありました。

別教(べっきょう)

別教(べっきょう)は、菩薩のみに説かれた教えで、前の蔵・通ニ教や後の円教(えんきょう)とも異なることからその名があります。
 
ここでは、前のニ教が空理のみを説くのに対し、広く空・仮・中の三諦(さんたい)を明かしています。
「空理」とは、あらゆる存在には固定した実体がないことをいい、「仮諦(けたい)」とは、あらゆる存在は因縁によって、仮りにその姿が現れていることをいい、「中諦(ちゅうたい)」とは、あらゆる存在は空でもなく仮でもなく、しかも空であり仮でもあるという、空・仮のニ辺を超越したところをいい、ここに不偏の真実があるとします。

しかし、別教で説かれる空・仮・中の三諦(さんたい)は、互いに融合することなく、それぞれが隔たっていることから「隔歴(きゃくりゃく)の三諦」といわれ、一切の事物について差別のみが説かれて、融和が説かれていないという欠陥があります。ここで説かれる中諦は、空・仮のニ辺を離れた単なる中道であるため、これを「但中の理」といいます。

さらにこの別教には、大乗の菩薩に対し、仏道修行を妨げる煩悩として見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑(さんわく)が明かされ、この三惑を断ずるために、十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚と次第して進む五十二位の修行の段階が説かれています。

また別教(べっきょう)では、蔵・通ニ教で説かれた三界六道のほかに、四聖(ししょう=声聞・縁覚・菩薩・仏)を含む十界すべての因果を明かしていますが、それぞれの境界は隔別しており、十界互具する義は説かれていません。

このように三諦円融の義もなく、十界の融通・互具の義もない別教は、いまだ完全な教えではないのです。

円教(えんきょう)

円教(えんきょう)とは、宇宙法界の一切が円満に融合し、不可思議な当体であることを明かした教えです。
円教では、空・仮・中の三諦は孤立することなく、一諦の中にそれぞれ三諦をそなえて、一諦即三諦・三諦即一諦の関係が説かれています。 これを「円融の三諦」といいます。

この円融の三諦は、法界に存在する個体も、法界全体もことごとく中道不思議の妙体であるとするもので、ここで説かれる中道は別教の「但中」に対し、「不但中」といいます。

また、円教においては十界互具が説かれ、九界の生命も仏界に具足し、仏界の生命もまた九界の衆生に具有することが明かされています。

これら三諦の円融や十界の互具を説き明かした円教は、完全な教えであり、仏の究極の悟りなのです。
この三諦円融・十界互具の原理を基として、法華経には一念三千という法門が明かされています。 この法門を信ずることによって、我が身と宇宙法界が円融相即し、これまで断滅すべきものとされていた煩悩・五欲も断ずる必要はなく、凡夫の身をそのまま仏と開く即身成仏の義を明かすものです。

なお、円教の理は華厳時・方等時・般若時にも一応説かれていますが、蔵・通・別の方便教と混合しているため、純粋な教えではありません。このためそれらを「爾前の円」といわれています。これに対して、法華経は純粋に円融円満の教義が明かされた教えであり、これを「純円独妙」といいます。

 

 

shoshu-nyumon.hateblo.jp