日蓮正宗入門

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序編 釈尊の仏教 第一章 釈尊の生涯 2 

二、釈尊の出現

誕生

釈尊は紀元前1000年頃、釈迦族の中心地・迦毘羅衛国(かびらえこく)(カピラヴァストゥ)城主である浄飯王(じょうぼんのう)を父とし、摩耶夫人(まやぶにん)を母として4月8日に誕生し、幼名を悉達多(しったるた)と名づけられました。このとき母の摩耶夫人は、当時の風習に従(したが)って出産のため生家へ帰る途中、ルンビニーの花園で太子を出産しましたが、産後の経過が思わしくなく、出産の7日後に亡くなりました。そのため太子は、母の妹の摩訶波闍波提(まかはじゃはだい)によって養育されました。

出家

悉達多太子は、王位継承者として文武両道にわたる教育を受けるなか、生母と死別したということもあり、少年期より思索(しさく)にふけることが多く、次第に人生の無常(むじょう)などを考えるようになりました。

太子は16歳のときに耶輸陀羅(やしゅだら)を妃(きさき)に迎え、一子・羅ゴ羅(らごら)をもうけたことにより、後継ぎの問題が解決すると、かねて念願していた出家の志を果たすため、19歳の年の12月8日夜半、王宮を出て修行の道に入りました。

釈尊出家の動機>

釈尊の出家の動機の一つになったものに四門出遊の故事が挙げられます。
あるとき太子が迦毘羅衛城の東門から出ると老人に会い、南門より出ると病人に会い、西門から出ると死者に会い、生あれば、老・病・死もあると無常を感じ、さらに北門から出た時に一人の出家沙門に出会ったといいます。太子は、世俗の汚れを離れた沙門の清浄な姿を見て、出家の意志を固めたといわれています。

修行

出家した太子は、当時、バラモン教が盛んに行なわれていた南方の新興国である摩竭陀国(まかだこく)(マガダ)の首都・王舎城(おうしゃじょう)(ラージャグリハ)に向かいました。

出家に反対する父・浄飯王(じょうぼんのう)は阿若橋陣如(あにゃきょうじんにょ)ら5人をたうかわして太子に城に帰るよう勧(すす)めましたが、太子の出家の意思が堅かったので、この5人を太子の侍者(じしゃ)としてともに修行させることにしました。

まず太子は、禅定(ぜんじょう)の大家(たいか)といわれていた二人の仙人にそれぞれ師事(しじ)し、数論学(すろんがく)等を学んで禅定の極意(ごくい)を修得しましたが、人間の苦は禅定によって解決できないと悟ってそこを去りました。

その後、太子は、尼連禅河(にれんぜんが)(ネーランジャラー河)の西岸にある森林に入り、呼吸を止める修行や、減食・絶食などの苦行を数年にわたって行ないましたが、それらは心身を極度に消耗(しょうもう)するのみで、悩みを根本的に解決するものではありませんでした。そこで太子は苦行を捨て、尼連禅河で身を洗い清め、村の牧女・難陀婆羅(なんだばら)から捧げられた乳粥(ちちがゆ)を飲み、心身ともに回復することができました。

この姿を見た5人は、太子が苦行を捨てて堕落(だらく)したものと誤解し、別の修行を求めて波羅奈国(はらないこく)(バーラーナシー)ろ鹿野苑(ろくやおん)(サルナート)へと去って行きました。

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