日蓮正宗入門

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三時の弘経―大集経の予言―

三時の弘経―大集経の予言―

釈尊は、自らの入滅後における教法の流布すべき「時」を大別し、正法・像法・末法という三つの時代があることを説かれています。

この正・像・末の三時の期間については、経典などによって種々の説がありますが、日蓮大聖人は『撰時抄(せんじしょう)』においてだいしっきょうだいがくせそんがつぞうぼさつたまいわゆる「大集経に大覚世尊、月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり。所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固(げだつけんご)、次の五百年には禅定堅固(ぜんじょうけんご)已上一千年、次の五百年には読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)、次の五百年には多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)已上二千年、次の五百年には我が法の中に於て闘諍言訟(とうじょうごんしょう)して白法隠没せん(びゃくほうおんもつ)」(新編836)

と説かれています。

正法時代

正法時代とは、釈尊入滅後の第一の五百年の解脱堅固(げだつけんご)と、第二の五百年の禅定堅固(ぜんじょうけんご)を合わせた一千年間をいいます。堅固とは、堅く確定している状態を意味します。

第一の解脱堅固の時代は、衆生の根性(こんじょう)が素直であったことから、釈尊の法が正しく伝えられ、その仏の智慧(ちえ)を得て悟りを開くための仏道修行が行なわれました。

第二の禅定堅固の時代は、衆生が大乗を修して深く三昧(さんまい)に入り、心を静めて思惟(しゆい)の行に専念し、悟りを得ようとする仏道修行が用いられました。

正法時代は、釈尊の教(教法)・行(修行)・証(悟り)(きょう・ぎょう・しょう)が正しくそなわっており、仏道を求める衆生も過去に善根を積んだ機根(きこん)であったので、釈尊の教法によって証果(しょうか)を得ることができました。

正法時代の仏教の伝播(でんぱ)は、釈尊の入滅直後より約百年の間、弟子の迦葉(かしょう)・阿難(あなん)等によって専ら小乗教が弘められ、次に、小乗教を表にしてわずかに大乗教が弘まり、さらにその後、馬鳴(めみょう)・竜樹(りゅうじゅ)・天親(てんじん)等によって、小乗教が破折されて大乗教が宣揚(せんよう)されるなど、釈尊から伝持・弘教の付嘱を受けた「付法蔵(ふほうぞう)の二十四人」が中心となっていました。

またこの時代には、阿闍世王(あじゃせおう)・阿育王(あいくおう)・迦膩色迦王(かにしかおう)等の外護(げご)によって仏典の結集(けつじゅう)があり、仏法はインド全体に広く流伝していきました。

像法時代

像法時代とは、前の正法時代の一千年を経た第三の五百年の読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)と、第四の五百年の多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)を合わせた一千年間をいいます。この頃になると、仏の入滅より一千年以上のときが経過していたため、仏法を悪用する似非(えせ)仏法者が多く現れ、仏法本来の姿が失われるようになり、その結果、小乗教によって大乗教が破(やぶ)られたり、権大乗教(ごんだいじょうきょう)により実大乗教が廃されるというように、仏法は次第に混乱していきました。

この時代は、仏法の教えや修行がわずかばかり残っていたとはいえ、証果(しょうか)は得られず、形だけが正法に像た時代となっていたので、像法時代といいます。

第三の読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)の時代には、中国に経典が伝えられるなかで、羅什三蔵(らじゅうさんぞう)や玄奘三蔵(げんしょうさんぞう)の多くの僧侶によって漢訳や講説がなされ、さらに教義の研鑽などが行われました。

次の第四の多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)の時代には、多くの寺塔や仏像が建立され、形のうえで仏法流布の姿が見られました。

またこの時代、中国に渡った仏教は、中国古来の宗教であった道教と融和(ゆうわ)をはかりながら広まっていくなか、仏教者の間では次第に教義論争が盛んになり、ついには「南三北七(なんさんほくしち)」といわれる十派が生まれました。やがて天台大師の出現により、これら十派の邪義もことごとく破折されて法華経が大いに流布しました。しかし、その後に禅宗真言宗等の権大乗教が中国全土を覆うようになり、釈尊の仏法は徐々に衰退していきました。

また、多造塔寺堅固の時代に日本にも仏教が伝わり、「多造塔寺」の言葉どおりに、奈良や京都に盛んに寺塔の建立が行われました。このうち、奈良においては南都(なんと)六宗の諸派が栄えましたが、平安期に入ると伝教大師が出現し、これらの六宗の教義を破折して法華経を弘通しました。

しかしほどなくして、釈尊が予証した「白法隠没(びゃくほうおんもつ)」という末法時代の到来となり、法華経を立てる天台宗が衰退し、真言宗等の邪義が蔓延(まんえん)していきました。

末法時代

末法時代(まっぽうじだい)とは、釈尊の仏法の力がなくなり、人心は悪化し、世相の混乱によって争いが絶えない末世法滅(まつせほうめつ)の時代をいいます。

この末法時代は、衆生は仏法に対して下劣な考えをもって慢心・疑惑などを懐き、また法華経の教義を盗み取って我賢(われかしこ)しと主張するなどの多くの邪義が続出しました。それにより思想は混乱し、衆生の生命も貧欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)などの煩悩が旺盛となり、世のなかも荒んで争いごとが絶えず(闘諍言訟 とうじょうごんしょう)、さらに天変地夭(てんぺんちよう)の連続による末世の様相を呈し、退廃的な風潮が蔓延していきました。

このような濁乱(じょくらん)の世相である末法において、釈尊の教法(白法 びゃくほう)は隠没(おんもつ)し、末世の闇を根本から救う日蓮大聖人の南無妙法蓮華経(大白法 だいびゃくほう)が出現するのです。この大白法が末法に流布すべきことを釈尊は、法華経『薬王品第二十三』に、
「我が滅度(めつど)の後(のち)、後の五百歳の中に、閻浮提(えんぶだい)に広宣流布(こうせんるふ)して、断絶(だんぜつ)せしむること無けん」(開結539)
と説かれ、五箇(ごか)の五百歳の最後・第五番目にあたる末法において、一切衆生を済度(さいど)する仏法として、末法法華経である南無妙法蓮華経が出現し、永久に断絶することなく広宣流布していくことを予証されています。これについて天台大師も「後の五百歳、遠く妙道に沾(うるお)わん」と述べられ、また伝教大師は「正像稍(やや)過ぎ已って、末法太(はなは)だ近きに有り、法華一乗の機、今正(まさ)しく是れ其の時なり」と、末法時代は妙法流布のときであることを示されています。